うちやまうちこの日記

旅のことや食べ物のことを忖度なく綴っています。

釜山で産まれ、敗戦後日本に引き揚げてきた祖母の話

京都の舞鶴市に行ったときに、引揚記念館に行ってきました。

 

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語り部の方からシベリア抑留は男性だけでなく、女性でも抑留されていた人がいたと聞きました。

この話を聞いたとき、祖母が抑留されていた可能性、抑留されることなく日本に帰れてよかったと思うと同時に、祖母の語った話を記そうと思いました。

祖母の記憶も40年ほど前の内容であり、私が聞いたのも30数年前なので、歴史とは少し時間のずれがあると思いますが、ご了承ください。

 

血の繋がりのないきょうだい達

昭和16年生まれの私の母親には兄2人、弟1人、妹2人いるが母親だけが血が繋がってない。

記憶に残っているのは、私が小学校に入る前くらいにさかのぼる。

毎年正月2日には母方の親戚一同が集まるのだが、なんとなく母だけが特別扱いされているような感じがあった。

母の妹や、兄弟の妻は専業主婦あるいはパートだったが、母は正社員で正月も働いていたため、その集まりに遅れてくるからだと子ども心に思っていたのだが、やたらと3歳下の弟が母を褒めているので、なんで兄弟やのにそんなに褒めるのだろうとも思っていた。

母のすぐ下の妹は同じ昭和16年生まれだが、双子でもない。

なんで、同じ年に生まれたのかというのを聞いても、曖昧にはぶらかされるだけだったが、当時はそのまま追及もせず、時日が過ぎていった。

やがて中学生になった頃、祖母が母が他のきょうだい達と血が繋がっていないこと、祖母と血が繋がっているのは、私の母親だけだということ、他のきょうだい達は亡くなった祖父の連れ子だということを聞かされた。

その話を聞いた後くらいから、祖母の家に遊びにいくたびに、祖母の生い立ちや、戦中戦後の話を昔話のようにきかせてくれた。

 

釜山で産まれた祖母

祖母は大正6年に釜山で漁業の会社を営んでいた家に兄3人、弟1人、姉3人、妹1人の4男5女の4女として産まれた。

漁業といっても、どうやら漁師とかではなく、ちりめんじゃこを加工している会社とのことだった。

けっこう裕福な家庭だったらしいが、女ばかりの家系だったため、父親が養子に入って家業を継いだらしい。

兄2人くらい、弟2人くらい、姉は1人、妹は2人くらい。昔に聞いた話であり、記憶は定かではないが、兄弟の中には若くして亡くなった者もいたとのことだった。

祖母が生まれる前に次女が幼い時に亡くなってしまったため、次女の生まれ変わりのように思われて、父親によくかわいがられていたとのことだった。

祖母は昔は病弱だったらしく、父親に滋養のためと無理やり鯉の血を飲まされたこともあったらしく、吐きそうになりながら頑張って飲んだとも話していた。

祖母は真ん中の兄と弟とよく遊んでいたらしいが、一番歳の近かった兄はすごく優しかったが、もう一人の兄には小さい頃よりよくいじめられていたとのことだった。

よく一緒に遊んでいた弟は終戦前後に結核で亡くなったとのことだった。

本当は4月生まれだが、親が早く学校に入れたかったため、戸籍は1か月早めの3月になっている。

あまり容姿端麗ではない祖母。すぐ下の妹のは、容姿端麗だったため小さい頃から褒められていたらしい。

負けず嫌いの祖母は勉学に勤しんだようだった

 

寮生活

幼い頃は、病弱だったが、すくすくと健康に育っていった祖母は、寮生活に入り高等学校生活を送ることになった。

今は、大学や大学院卒が当たり前の時代だが、その頃の高等女学校はけっこう高学歴の部類だったらしい。

高等女学校卒業後は、周りで勉強を教えれるような人がいなかったため、簡単な勉強を教える教師のような仕事をやっていたらしい。

結婚後、故郷を離れて

昭和15年、23歳頃に一度だけ見合いをした3歳ほど年上の男性と結婚をすることなった。

いわゆる、母と血の繋がった祖父(以後、義信と呼ぶ)である。

そのお見合いは祖母の父親の縁だということだった。

祖母は故郷である釜山を離れ、夫と年老いた義理の両親と新義州で暮らし始めた。

義信は、税関の仕事をしていた。

亡くなった赤ちゃんの身体の中に薬物を隠して持ち込もうとしていた母親を見つけたというエピソードを話してくれたことがあったと、祖母が言っていた。

これを聞くと、なかなか仕事のできる男性のように思えるが、家では不器用な感じの人だったらしい。

甘い食べ物が好きだったらしく、饅頭を好んで食べていたとのことだった。

あまり、話したり愛情表現をしない男性だったとのことだが、しっかりとやることはやっていたので、結婚一年後くらいで娘(母)が産まれた。

義信は自分に似ている娘を「まーめはな(豆鼻)ちゃん」といってよく可愛がっていたらしい。

夫の戦死

娘を身ごもった時くらいから、戦時色が色濃くなっていた。

祖母の住んでいたところは、しばらく落ち着いていたが、いよいよ男子が招集されるようになってきた。

義信もその例に漏れずに結婚生活2年くらいの時に召集されることとなった。

召集される時に、理科系応用化学の専門学校大学を出ていたため幹部になるかと聞かれたが、断ったとのことだった。

祖母はそのことについて、なんで幹部にならなかったのか義信に問うたが、もう決めたからと方向転換をすることはなかった。

この選択が義信の生死と祖母と母の人生を大きく変えることになる。

義信は召集後、激戦地のパプアニューギニアに赴任することとなった。

赴任後しばらくして、パプアニューギニアで戦死したという知らせがきた。昭和19年のことだった。

祖母曰く、不器用な人だったから戦うことなく飢えで亡くなってしまったのだろうと言っていた。

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日本の敗戦

終戦前に祖母は病気になった義信の母の世話をするため、義両親の住む韓江に移ることとなった。

義母は嫁である祖母にいじわるをしていたらしいが、祖母が発疹チフスを発症した義母の身体を拭いているときに「こんなによくしてもらえるとは思わなかった」と言っていたらしい。

この義母は発疹チフス治癒後に、腸チフスを発症した友人の見舞いに行ったときに感染し漢江の地で亡くなったとのことだった。

後日、祖母曰く漢江に移らずに新義州に住んでいたら、日本には帰ってこれなかっただろうとのことだった。

 

終戦前頃からロシア人が祖母の住んでいる集落にも侵攻してきた。

祖母の家にはあるロシア兵が訪ねてくるようになった。

集落の中では若く、読み書きと少しの英語を話すことができたため、色々と生活する上での情報を得るためだったのだろうと祖母は言っていた。

そのロシア兵は、紳士的で礼儀正しかった。

訪ねるときには一緒に住んでいた義父義理の両親にも挨拶し家に入っていたと言っていた。

中将らしくその上には年配の大将がいるとのことだった。

祖母とそのロシア兵はお互いにあいさつ程度の言葉を教えあったりしたようだった

ある日、そのロシア兵は祖母に自分の持っている拳銃を祖母の目の前に置き、触ってみてと言った。

祖母は怖くて触れなかった。

その後、祖母はそのロシア兵に尋ねた。

「触ったらどうするつもりだった?」

ロシア兵は「もし、触ってたら捕まえるつもりだった」と。

私が祖母から話を聞いた時に、そのロシア兵は何年か前に祖母の夢に出てきて、何も話さず消えたので、もう亡くなっているだろうと話していた。

日本への引き揚げ

ほどなくして、朝鮮北部にいた祖母は義父義理の両親と娘とともに、日本内地へ戻るために南部に下ることとなる。

出発時に団長より団から離れてしまうと、どうなるかわからないから離れないようにと説明を受けた。

年老いた義父両親と4歳の娘を連れ、重い荷物を持ち出発。

道の途中で親と離れてしまった7歳くらいの女の子も連れて必死に団から離れないように歩いた。

その子は無事に親に引き渡すことが出来たと言っていた。

足に豆ができ血が出てきても必死に付いて行った。

義父は大変だからと、たくさんの荷物を持って行くことに反対していたが、祖母の持って行った荷物の中には、結婚する時に親が持たせてくれた高級な着物も入っており、道の要所でそれらを渡して通してもらうことができたとのことだった。

渡せなかった人は足止めをくらっており、持って行ってなかったらどうなっていたかわからないと言っていた。

なんとか、釜山まで辿り着き船に乗り日本に帰ることができた。

亡き夫の故郷での暮らし

引き揚げ後は、夫の故郷である福井県の田舎で暮らすこととなった。

食料もあまり回ってくることなく、ひもじい思いをしたとのことだったが、近所の人にはたくさん助けられたとのことだった。

祖母と一緒に何度か祖父の墓参りに行ったが、その度に祖母はお世話になった近所の人を訪ねて、昔話や近況を話し合って懐かしんでいた。

再婚後6人の母親に

しばらく、福井の田舎に住んでいたが、35歳頃に兄の縁で8歳ほど年上の男性と再婚することになる。

いわゆる、私を幼い頃より可愛がってくれた祖父である。

祖父は妻をすい臓がんで亡くし、5人の子どもたちの父親であった。幼い子供もいたため、後妻が必要だった。

再婚後、福井県を離れて大阪で暮らすことになる。

祖父の家にはずっと賞状が飾られており、祖母がそれについて説明をしてくれた。

なんの仕事だったか記憶は定かではないが、祖父の職場で、機械に腕を挟まれ切断する事例が後をたたなかったが、祖父が発明したものによって事故を防げた功績を称えるためのものとのことだった。

祖父は貧しい生まれで、幼い頃より丁稚奉公に出ており、学歴はないけど立派な人だったと祖母は語っていた。

祖父は祖母の前夫の位牌も分け隔てなく扱いたいと、本当はいけないことだが妻と同じ仏壇に置かせてくれたと祖母は話してくれた。

また、祖母が前夫の墓参りのために福井県へ泊りに行くときも快く送り出してくれた。

祖父は再婚時に祖母にお互い遠慮なく子供たちを育てようと言った。

長男はすでに成人、次男も奉公に行っていたのと死んだ母親が恋しかったためか、あまり祖母に懐くことはしなかったらしいが、二人以外の子どもは、新しい母親が来た嬉しさからか、よく懐いて慕ってくれたと祖母は言っていた。

祖母は本当に愛情をもって子供たちを育てており、小さいころから接していると本当に自分のこどものように思えて大事だと語ってくれた。

祖父も血のつながりはないが、一番よく遊びに来ていた私を孫の中で一番かわいがってくれていた。

祖母は引き揚げ仲間から仕事を紹介されて、競艇場で働きながら子供たちを育てていった。

 

夫婦二人での生活と夫の死

子どもたちを育て終え、子どもたちが家庭を持ち家を離れたのち、夫婦二人の生活が始まった。

祖母60歳ころ、祖父68歳ころの話である。

私の記憶は4歳頃からであるが、祖父母の家に遊びに行ってたときは祖父はずっと布団の上で過ごしていた記憶がある。

肝硬変を患っていたからである。

祖母は祖父の看病をしながら仕事を続けていた。退職後は、以前よりやっていた三味線、ゲートボールと老後の生活を有意義に過ごしていた。

ちょうど、私が10歳頃の時に祖父の病が悪化。肝硬変による食道静脈瘤により、夜中に血を吐き、救急搬送されたのだ。

祖母は病院に泊まりこみ、祖父の世話をしていたが入院後1週間ほどで、亡くなってしまった。

祖父が亡くなった後、祖母の落胆ぶりを心配した母が夜に一人にはさせられないと、母と私は1か月ほど祖母の家に泊まり、そこから職場や学校に行っていた。

近所には親しい人もおり、子供たちも頻回に祖母の家を訪ねており、時間の経過とともに祖母の悲しみも薄らいできた。

長年住んでた家を離れ

祖母の家は家自体は祖父母のものだったが、土地は借地だった。

土地の所有者がマンション会社に売るので、住んでる家を出て行ってほしいと言ってきた。

隣近所の人も祖母と同じような人、土地も家も借りている人だったが、なんとか土地の売却を阻止しようと団結したが、結局今まで住んでいた土地を出ていくことになった。

祖母が80歳くらいの話である。

住んでいた家を引き払った後は、私たちが住む近所にアパートを借りて住んだ。

しばらく、一人で住んでおり私も毎日、祖母の住むアパートを訪ねたが夜になると寂しさが増したため、一緒に暮らすことになった。

父、母、祖母、私と4人で暮らすには狭かったため、私たちは同じ市内にある住んでいた家より広い物件に引っ越した。

祖母は80歳過ぎても元気だったため、働いている母に変わり晩御飯を毎日作ったり、孫である私と温泉に行ったりしていた。

 

かわいがっていた息子の死

祖母が85歳頃に、かわいがっていた三男を癌で亡くした。

叔父は定年退職後、嘱託で働きはじめた矢先だった。

一緒に叔父の葬式に行ったが、その時の祖母の悲しみようは見ていてこっちが辛くなるほどだった。

祖母は、息子の死を受け入れることが出来ず、お骨上げをすることが出来なかった。

その時に、祖母が叔父との思い出を語ってくれた。

祖父の連れ子の中で一番、懐いてくれた子であり、いたずらっ子だったためよく叱っていたので、思い入れがあるということを。

 

身体の衰えとあの世への旅立ち

叔父の死を乗り越え、しばらく元気に過ごしていたが米寿を過ぎたころより、パーキンソン病が悪化し、徐々に身体の機能が衰えてきた。

家事をすることが出来なくなり、歩くことも立ち上がることも難しくなり、いよいよほぼベッドの上で過ごすことになった。

その間に、私も結婚し実家を離れた。祖母は結婚式に参加はできなかったが、喜んでくれた。

私に子供が出来た時も、すごくかわいがってくれた。

祖母はベッド上での生活でも食欲はあり、よく食べていたが、徐々に食欲が低下し、家を訪ねるたびに痩せてきていた。

いよいよ、全く食べることが出来なくなり、訪問看護で点滴をして過ごすようになったが、意識も朦朧としており、点滴をしようとしても振り払うようになってしまった。

私が、家族とともに夫の実家で過ごしていた時に突然母より電話があった。

祖母が自宅で亡くなったと。享年94だった。

私は祖母が亡くなったことを伝え、急いで家族3人で実家に戻った。

祖母が亡くなった時に、ちょうど母と同じ年の妹、次男の嫁も家にたずねてきており、祖母の死に立ち会っていた。

急に苦しみだしてすぐに事切れたとのことだった。

葬式は亡くなって2日後に行われた。

私も母も年だからしょうがないと理屈ではわかっていたが、やはり悲しかった。私は大泣きしたが、母は悲しみを抑えているようだった。

落胆している母に変わり、父が喪主を務めた。

父は、火葬中の食事時のあいさつでこう言った。

「あいさつを考えているときに、おばあちゃんが亡くなったのは5月1日。死んだおじいちゃん(再婚の夫)が五一さんだから、おいで、おいでと5月1日におばあちゃんを連れて行ったのかなと思います。」

その言葉を聞いて、周りはそうやなあと沸いた。

母は実の父親である義信がいるので、どう思ったかはわからないが、私は死んだおじいちゃん(五一)が祖母の手を引いて天国へ連れて行く姿を想像し、悲しさが和らいだような気がした。

 

新義州市:現在の朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)にある、中華人民共和国との国境     付近

 

韓江:現在の韓国にあるソウル付近。

 

後日、母よりこのブログをみて訂正があったので、訂正箇所は線で消しており、青字で修正しています。